日本財団 図書館


官との給与の不均衡などであった。そのため、1907年に設置されたフィリピン議会の指導者による自治の実現に向けた努力の結果、合衆国の議会でフィリピン自治を認めるジョーンズ法(Jones Law)が1916年に制定された。同法において、総督の下での独立した官職の運営、中央集権化された制度、公務員局の権限(選考、任用及び合格証明)、学歴別の公務員試験の実施などが定められた。
一方、フィリピン人の政府への雇用問題は公務員制度創設時から存していた。米国のW・ウィルソン大統領は早くからフィリピンの独立に好意的であり、フィリピン政府の迅速なフィリピン人化(Filipinization)に努めたこともあり、J・ギル氏が1920年に公務員局長に最初のフィリピン人として任命された。これによりこの問題は徐々に改善されていった。
その後、行政規模の拡大に伴ってフィリピンの官僚制は重要な任務を負うことになっていった。M・ケソン大統領は1935年、政府の能率及び実効性が問われていたことから、公務員制度の改善に向けた公務員法の改正案を議会に提出した。しかしながら、議会が法案審議を行うことなく休会となったため、大統領は、公務員局の権限を中央集権化させる執行命令を発出した。その内容は、同局を格上げし、同局長を各省庁の次官クラスに格付けするものであった。
1935年に至り、最初の憲法が制定された(1899年の革命政府によるマロロス憲法があるが、現実には実施されなかった。)。同憲法では、政府の任用の基本原則としてメリット・システムが明定された。
翌年、議会は、州、地方及び市の職員も公務員とする公務員法を制定すると共に、政府職員の能率・福祉の増進を行うため、新たな公務員保険制度を定める法律を定めた。
ウ 独立と公務員法の制定−人事委員会(Civil Service Commission)
その後、フィリピンは、第2次世界大戦中での日本軍政期を経るが、フィリピン官僚制に基本的な変化は生じなかった。フィリピンは、終戦直前の1946年に独立して第3共和国体制に移行した。
C・ガルツア大統領は1959年、新しい公務員法を承認した。同法は、成績及び適格性による任用という憲法上の要請を確保し、人事行政を誠実で効率的な公務、礼儀の維持に向けた進歩的な制度にすることを目的とした。あわせて、公務員制度創設以来発出されていた人事行政に関するあらゆる法令を統合し、フィリピン官僚制の最初の包括的な法とするものであった。さらに、公務員局長を閣僚メンバーとし、同局を人事委員会に格上げし、地方事務所(9)を設置した。
?B戒厳令期
戦後の最優先課題は国家の構築であった。そのため、再編法による統合再編計画

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION